第30回全国山村振興シンポジウムにおける
小栗康平監督の特別講演「映画と山の風景」


 特別講演は、映画監督の小栗康平氏から「映画と山の風景」と題して行われた。
 小栗監督から、次のような趣旨の講演があった。

 今日皆さんに見ていただいた映画『眠る男』は、群馬県の製作したものです。行政が自ら発意して映画をつくるという初めての試みでした。日本の、もっとも平均的な風景である中山間部を舞台として、人々の暮らしのありようと人々がふつうにかかえる感情や祈りといったことを描こうとしたものです。映画の商業的な枠組みの中では決して成立しないものでした。映画は都市的で、個人的なものに依拠している側面が強い表現です。例えば、人間の身の丈は一本の樹木とさえ一緒の画面にはおさまりません。木の全体をカメラに入れれば人間は小さくなってしまいますし、人間をフルショットでとらえれば木は背景へと退いてしまいます。うつくしい情景の描写として、山や村が映画に登場することは多々ありますが、それらが前景として映画の中心に位置を占めることはありません。映画やテレビの表現技法のうえからも、描かれる題材からも、それらを見る人々の意識のなかでも、山の風景は後景でしかないのです。これは近代そのものの問題ともいえそうです。
 このところ大雨が降り続いています。この雨水が森林で保水されなかったら、間違いなく都市は水没しているでしょう。あるいは逆に、森が平地にゆったりと水を供給しなかったら、都市は飲み水にすら事欠くでしょう。山は現金収入が少ないのですから、都市に生きる人達から、水源税といったものをとるべきなのでしょう。あるいは徴農制といったものを定めて、どんな人も一年に一回は山に入り、林業や農業に従事する。出来ない人はそれ相応のお金を払う、なにかそのくらい大胆な発想をしないと、都市と山がもつ貨幣の格差は埋めようがない。
 国土の約七割の傾斜地(山地)をもつ日本では、こうした人の移動があって、初めて健全な社会になるのではないかと思います。山村の人々は都市の人を招くときに「なにもないけど」とへりくだるけれど、あなたがたはそろそろこちらへ来ないと生きていけないのではないですか、といえるような強い意志も必要です。そのためには文化としての山村、想像力としての山村、都市にはありえないものを見つけていかなければならない。
 わが国は、農業と工業が切れている。農業を土台として社会が近代化し、その農業のうえに工業が乗っかるというふうになっていない。理想はお供えの重ね餅のように農業の上に工業、そのうえに情報産業なり観光産業なりも乗っていなければならない。
 時代が変わって、地域の時代、ボーダレスの時代だといわれる。考えようによっては、この時代、山村にとっては順境、追い風ともいえるのではないか。これまではどこかに際立った中心、センターがあり、そことの距離を計測しながら生きなければならなかった。中心と思える、向こうの方にある普遍性、といったことを追いかけ、センターに少しでも近付きたい、そればかりを願ってきた。いまはその中心が存在しにくくなった。
 山村で傾斜がきついからといって、平らにしようと考える人はいない。不自由、不便に思えるところからより強い活力、想像力が出てくる。山村、中山間部地域のかかえている限界を取り除いてあっちへ行こうとするのではなく、もうそんな普遍性などというものはないのだ、そう考えることでむしろ豊かなコミュニケーション、より人間的な人々の移動といったことが可能になってくるように思う。
 私の家の庭に白神山地で拾ってきたブナの実をまいたら、それが芽を出して私の背丈近くになっている。これが成長して立派な木になるまでは自分は生きていない。自分がいなくなっても相手が生きている。そういう限界がうれしい。
 山村が都市である必要はない。山村は経済からすれば都市の後景でしかないけれど、その後景を前景にもってくるよう、これからもさまざまな知恵と努力が必要である。